「パンジー」

木下 孝則(きのした たかのり、1894年2月24日 - 1973年3月29日)は、日本の洋画家。

明治27年2月24日東京市四谷区に生まる。父友三郎は、和歌山県の出身で司法畑から後に明治大学総長となった人で、母は児島氏の三女。孝則は7人兄弟の長男で、三男は、やはり洋画家となった木下義謙である。孝則の洋画志望には、母方の叔父児島喜久雄(西洋美術史家)の影響によるところが大きかったといわれる。明治39年、学習院初等科卒業、次で中等科、高等科に進み、大正6年京大法科大学政治経済学科に入学、翌年東京帝国大学文科大学哲学科に再入学したが、大正8年東大も退学。この頃、小島善太郎、林倭衛、佐伯祐三その他との交友から、油絵を描き初め、大正10年第8回二科会展に「富永君の肖像」が初入選となった。続いて大正12年、13年に樗牛賞、二科会賞を受けたが、15年、1930年協会を設立。昭和2年には春陽会に会員として招かれ、しばらくは1930年協会展並びに春陽会展にも出品していた。昭和5年、春陽会を退会、フランス留学ののち、昭和11年一水会の創立に加わり、以後、毎年一水会展、戦後は更に日展にも出品し、双方の展覧会を主な作品発表の場としていた。一貫して婦人像を描きつづけ、穏健な写実派の作家として知られていた。戦後、一連のバレリーナの作品によって注目されたが、その他の婦人像も、すべて、都会の洗練された若い女性をモデルとして、明快単純な色調、優れた描写力が独自の作風を創り出していた。作品は殆ど女性像でそれもコスチュームが多かった。

〔サイズ〕絵寸 W27×H22cm
         額寸 W43×H38cm

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