草間彌生

『世界中を魅了する前衛芸術家、草間彌生』

  

赤地に白い水玉模様の色鮮やかなバルーンや、黄色と黒の存在感あるかぼちゃのオブジェといえば、誰を思い浮かべるでしょうか?これらは「前衛の女王」とも呼ばれる草間彌生を象徴する作品のひとつです。

今回は、かわいらしくありながらどこか怪しげでもある独特な作品で世界中を魅了する、前衛芸術家の草間彌生について紹介します。

 

草間彌生とは

 

草間彌生は長野県生まれの前衛芸術家です。若き日の草間彌生は日本画を勉強していましたが、彼女の芸術性は日本画の枠には収まりきらず、彫刻、パブリックアート(公共空間に設置する芸術作品)、インスタレーション(空間全体が作品となっている芸術様式)、ハプニング(演劇に似たパフォーマンスの一種)、小説や映画などといったさまざまな表現様式に発展していきます。

これらの作品には水玉模様や網目模様をモチーフとしたものが多くあり、いつしか水玉模様は草間彌生の代名詞ともいえるほどになりました。その斬新な作風はポップ・アートの創設者、アンディ・ウォーホルに影響を与えたことでも有名。また、ディズニーやアウディ、ルイ・ヴィトンなどの有名ブランドとコラボレーション作品を制作したことでも、広く知られています

水玉模様や網目模様で埋め尽くされた作品の制作は、幼いころから患っていた心の病に打ち勝つための手段でもありました。草間彌生の芸術は自己療法であるのと同時に、「世界の愛と平和のために芸術をもって闘っていく」ことを目的として制作されているといいます。

  

 

草間彌生と心の病

 

視界が水玉や網目模様におおわれたり、植物が人間の声で話しかけてきたりするという不可思議な現象が、まだ幼い少女であった頃の草間彌生を襲いました。このような幻覚はのちに心の病によるものだと診断されましたが、当時は家族からの理解が得られずに大変な苦労をしたといいます。

10歳頃になると、水玉と網目模様をモチーフにした絵を描き始めますが、これらは少女が幻覚の恐怖に打ち勝つための手段でした。草間は幻覚の内容を記録することによって驚きと恐怖にさらされた心を落ち着けていたのです。しかし、母親は草間にとってよりどころであった絵を描くことを禁じ、厳しく接するばかりでした。

草間が28歳のときに渡米したのは、浮気を繰り返す父と厳しい母親という心安らかならぬ家庭環境から離れるためであったともいわれています。

現在も強迫神経症と戦いながら作品制作に励んでいる草間彌生。心の病と闘いながらすばらしい作品を生み出した芸術家としては、他にもゴッホやムンクなどがいます。彼らは病による苦しみを自らの糧として昇華することにより、他の人には真似のできない独特の世界観を生み出すことに成功したのです。

 

 

草間彌生の作品について

  

草間彌生の作品は、水玉や網目などの同じパターンを繰り返し、それで画面を埋め尽くすことによって無限の広がりを表現しているのが特徴です。

 

網目模様

網目模様の作品でもっとも有名なのが、初期の代表作『無限の網』でしょう。モノクロで描かれたこの絵画作品は、アメリカでアクション絵画の大画面に刺激されたことから生まれたといわれています。さまざまな色でシリーズ化されており、他には太平洋の波を青地に白い網目で表した『パシフィック・オーシャン』などがあります。

 

水玉模様

水玉模様は草間の作成したあらゆる作品、つまり絵画作品やバルーン、きのこやカボチャなどのパブリックアート、ドレスなどに現れました。ときには赤と白で、また別のときには黄色と黒で描かれるそのような水玉模様は、草間の代名詞ともいってもいい過ぎではないでしょう。ハプニングにおいては裸の身体に直接水玉模様が描かれることもありました。

  

かぼちゃ

草間の制作する絵画作品やパブリックアートにはかぼちゃがよく登場します。最も有名なのは瀬戸内海の直島にある『南瓜』でしょう。青い海を背景にして見る、黒い水玉をまとった黄色い南瓜。独特の存在感を持ち、天気によって違った姿を見せてくれるその作品は、いまも多くの見学者を魅了しています。

草間は幼いころ、かぼちゃに心をなぐさめられていました。草間が制作するかぼちゃには、自分に安心感を与えてくれる大切な存在への親しい気持ちが表れているのです。

 

版画作品

草間彌生は多くの版画作品を残しました。リトグラフや銅版画もありますが、シルクスクリーンの作品がもっともよく知られています。シルクスクリーンは20世紀に生まれた新しい版画技法で、同時代にニューヨークで活躍したアンディ・ウォーホルもこの技法を用いて多くの作品を生み出しました。

かぼちゃや花々を描いたシルクスクリーンは特に人気が高く、草間作品独特の網目模様や水玉模様を存分に堪能できるのが魅力。無機質な世界に生きる現代人の心を、幻想の世界へと誘います。

 

 

  

草間彌生の生涯

 

草間彌生は昭和4年(1929年)、長野県の松本市に生まれました。

 

若き日の草間彌生

種苗業を営む裕福な家で育った草間彌生は草花に囲まれて幼少期を過ごします。小学校卒業後に入学した松本高等女学校では、美術教師をしている日本画家、日比野霞径に出会いました。彼女の才能に気づいた日比野は、草間に絵の指導をするようになります。

19歳になると京都市立美術工芸学校の最終課程に編入。ここでは本格的な作画技術を学びましたが、日本画の世界における厳しい上下関係は、草間にはなじめないものでした。

  

アメリカへ

昭和32年(1957年)、草間は新たな芸術を探求するためにアメリカへと旅立ちます。このころは外貨持ち出しの制限が厳しく、経済的に厳しい状況が続きました。

しかし、まもなく初期の代表作『無限の網』が高い評価を得て、草間はアーティストとしての地位を確立することに成功しました。また、1960年代の後半にはハプニングというパフォーマンスの一種で、ボディ・ペインティングやファッション・ショー、反戦運動などに幅広く取り組みます。

昭和43年(1968年)には、自作自演の映画「草間の自己消滅」を制作します。この作品は数々の映画祭で入賞し、話題となりました。

 

帰国後の苦しい日々

アメリカで前衛芸術家として華々しく活躍した草間ですが、その陰には前衛であるがゆえの苦しみもあったといいます。世間からの誤解やスキャンダルにさらされることもしばしばでした。体調が悪かったこともあり、昭和48年(1973年)療養のために日本に帰国。帰国からの数年間は入退院を繰り返しながらの苦しい日々が続きました。

昭和52年(1977年)からは病院のすぐ近くにアトリエを構え、病院を拠点として制作活動を行うようになります。文字を使った自己表現にも世界を広げた草間彌生は、昭和58年(1983年)には小説「クリストファー男娼窟」を発表。この作品は第10回野性時代新人賞を受賞しました。

 

 

世界的な前衛芸術家へ

 

日本での地位の確立に苦戦していた草間に、平成5年(1993年)にベニス・ビエンナーレの日本代表に選ばれたことで転機が訪れます。オープニングでは水玉のドレスを着た草間が来場者にかぼちゃのオブジェを配るというパフォーマンスを行い、大きな話題となりました。

草間彌生とその作品への注目は一層増し、さまざまな展覧会が世界各地で同時に開かれるようになっていきます。これらの展覧会には桁外れといってもいいほどの多くの来場者訪れるようになりました。

草間彌生は、その後も『愛はとこしえ』『わが永遠の魂』シリーズなどによって自らの芸術を追求しながら、私たちをあっと驚かせる作品を世に送り続けています。

 

 

芸術によって魂の救済を目指す草間彌生

 

病に苦しむ自らの魂を救うために始められた草間彌生の制作活動ですが、自らの芸術を突きつめていくうちに、それ以上のものを目指すようになっていきました。それは、自分だけでなく、芸術をもって全ての人の魂を救済することです。

家族の不和や病の苦しみから、誰よりも愛と平和の大切さを知っていた草間彌生は、その芸術を通して戦争や物質文明を批判し、愛あふれる社会の実現に向けてメッセージを送り続けています。そんな志を持つ彼女の作品は今も私たちの心を魅了し、惹きつけてやみません。 

また、このように魅力あふれる草間彌生の作品だからこそ、最近では展覧会に足を運ぶだけでは物足りないということで、比較的購入しやすいシルクスクリーンを身近に置いて楽しむ人も増えています。誰の目も気にせず幻想的な世界に身をゆだねることができれば、それは疲れた現代人にとって特別な癒しの時間となるに違いありません。そして前衛の女王として戦い続ける草間彌生のエネルギーが、作品を通してあなたの心に大きなエールを送ってくれることでしょう。