坂本 繁二郎

『日常の中から「美」をすくいあげる天才、坂本繁二郎

  

坂本繁二郎という洋画家をご存知でしょうか?自然を何より愛した坂本繁二郎は、牛や馬といった動物や月などを描いた作品を多く残しました。同じく洋画家の青木繁とは同じ画塾に通った仲で、並べて評されるのを聞いたことがあるという方も多いかもしれません。

それでは今回は坂本繁二郎について紹介いたします。

 

坂本繁二郎とは

 

坂本繁二郎は明治後期から昭和にかけて活躍した洋画家です。福岡県の久留米市に生まれ、同じ年に久留米で生まれた青木繁とはライバル同士であり、また親友でもありました。

想像の翼を羽ばたかせてロマンチックな作品を残した青木繁に対して、身の回りにあるものやありのままの自然からその本質を探り出そうとした坂本繁二郎。日常における何気ないひとコマも、坂本の手にかかればハッとするような印象的な作品に生まれ変わるのが不思議です。

坂本繁二郎は東京やフランスで絵を学びながらも、最終的には都会から離れて九州の自然の中で独自の世界観を追求し続けました。ひたむきに画業に向き合い続けた坂本は74歳で文化勲章を受章、87歳で没するまでに多くの名作を残しました。

  

 

坂本繁二郎の生涯と作風の変遷

   

坂本繁二郎は明治15年(1882年)に久留米市に生まれました。父親の坂本金三郎は旧久留米藩士でした。幼いころから絵画に親しみ、神童とも呼ばれるほどの才能を持っていた坂本繁二郎。若き頃の坂本は洋画家の森三美(もりみよし)の画塾で洋画の基礎を学びました。

久留米男子高等小学校で坂本繁二郎は青木繁に出会います。青木繁は森三美の画塾に通うライバルでもあり、ふたりは切磋琢磨しながら洋画を学んでいきました。

 

上京した坂本繁二郎

卒業後、家庭の事情から母校である久留米男子高等小学校の図画の先生として働き始めた坂本繁二郎ですが、東京美術学校に入学してめきめきと腕を上げていった青木繁に触発され、自らも上京することを決意します。

上京した坂本は、洋画家の小山正太郎が開いている画塾、不同舎に入門しました。上京と同時に坂本の描き方は、これまでの写実的な描写から印象画風の描写、つまり光の効果を重要視したものに変わっていきます。この頃は牛をモチーフとした作品に多く取り組んでいます。

上京して5年ほど経って作品が文展に入選するようになった頃、坂本は母方のいとこである薫と結婚。また、その後二科美術展覧会の監査委員にも選ばれ、比較的安定した生活が続きました。

 

フランスへの留学

大正10年(1921年)、坂本繁二郎はフランスへ留学します。フランスでは、パリの美術学校アカデミー・コラロッシでシャルル・ゲランに師事しました。

フランスにおける同時代の美術(キュビズムやフォービズムなど)よりも、少し時代をさかのぼったバルビゾン派の美術に心惹かれた坂本は、フランス中北部のバルビゾンや西部のヴァンヌなどを訪れて自然に親しんで過ごします。

この頃の坂本は色彩や形態の単純化に挑み、余分なものを排除して対象となるものの本質のみをすくいあげるという試みを始めています。

  

帰国から晩年にかけての坂本繁二郎

フランスから帰国後、八女を安住の地と定めた坂本繁二郎は、そこにアトリエを構えて創作に励むようになります。坂本が八女を選んだ理由は、八女の風景がバルビゾンに似ていたからだともいわれています。

自然を愛する坂本は、福岡県美術協会の理事やその展覧会の委員を務めたりしながら、都会の喧騒から離れて創作に没頭。近隣に住む若い画家たちに絵を指南することもありました。

八女では馬や趣味で集めていた能面をモチーフとした作品を多く描いていますが、加えて晩年には月を描いた作品にも精力的に取り組んでいます。坂本繁二郎は昭和44年(1969年)、老衰にて自宅で亡くなりました。

 

 

作品の特徴と魅力

 

透明感のある穏やかなタッチで何気ない日常の風景を描いた坂本繁二郎。彼には好んで取り上げたモチーフがいくつかあるので、時代の流れに沿って紹介いたしましょう。

 

牛は坂本繁二郎が最初に心惹かれたモチーフといえるでしょう。東京に住んでいた頃の坂本は、牛を描いた『うすれ日』という作品を第6回文展に出品しました。文豪夏目漱石がこの作品を称賛したことが、坂本が東京画壇に認められるきっかけにもなりました。

坂本が描くどこか寂しげで物思いにふけるような牛の姿は、学者肌で真面目な性格であった自身を投影しているかのようにも見えます。

 

フランスへの留学から帰国し、福岡県の八女に落ち着いた頃の坂本繁二郎は、馬を描いた作品を多く制作しています。なかでも八女に移って間もない昭和7年(1932年)に描かれた『放牧三馬』や、昭和12年(1932年)の『水より上がる馬』は坂本の代表作ともいえるでしょう。 

九州の大自然のなかでのびのびと過ごす馬を描いたこれらの作品は、単純化された色彩、特に黄土色や青緑色などを多く使って、淡く優しいタッチで制作されました。

 

能面

31歳の頃に初めて能の舞台を見て大いに感動した坂本繁二郎は、趣味として能面を集めるようになりました。坂本が集めたさまざまな種類の能面は、その作品の中にも多く登場しています。

戦後から描き始めた能面をモチーフとした作品は、約20年にも渡って制作され続けました。語りかけようとするように口を少し開いた表情が印象的な能面を、淡い色彩で静かに描き出しています。

 

最晩年の坂本繁二郎は月に魅了され、いくつかの作品を制作しています。夜空に浮かぶ月を画面上部の中央に描き、月明かりで照らされた周りの風景をぼんやりと幻想的に描いているのが特徴です。

絶筆となった『幽光』は、画面上部に描かれるオレンジ色の月が印象的に描かれ、画面下部に描かれた紫色の櫨(はぜ)並木はぼんやりとした色彩で描かれています。余分なものを省き対象となるものの本質のみをすくいあげるという坂本の試みが、そこに表れているといえるでしょう。

  

 

坂本繁二郎の版画

 

坂本繁二郎はいくつかの魅力的な版画も残しています。帝国劇場における狂言役者を描いた『草画舞台姿(そうがぶたいすがた)』や阿蘇山を描いた『阿蘇五景』などが知られ、いずれも木版画です。

浮世絵のようにはっきりとした色で描かれた木版画では、坂本の新たな魅力を発見することができるでしょう。計算された画面構成と鮮やかな色彩により、どこかモダンな空気をたたえた作品となっています。

 

  

自然を愛し、日常を真摯に見つめ続けた坂本繁二郎

 

坂本繁二郎は、戦友であった青木繁と並べて語られることの多い画家です。

ロマンチックな神話の世界などを描いたすばらしい作品を残しつつも、若くして亡くなった青木繁。それに対して、ありのままの自然の美しさや何気ない日常を印象的に描き、87歳で亡くなるまでに多くの名作を残した坂本繁二郎。

一緒に写生旅行に行ったりしながら共に制作に励み、好敵手であったふたりが最終的には対照的な人生を送ったのは非常に興味深いことです。坂本繁二郎は青木繁のことを生涯ライバルとして意識していたといわれていますが、そのことがふたりに正反対の人生を歩ませることとなった原因のひとつなのかもしれません。

あくまでも現実に見たものを描くことにこだわり、対象とするものの本質をすくいあげようとした坂本繁二郎。彼は身の回りにある何気ない日常の中から価値あるものを見つけ出し、それを作品として昇華させるというすばらしい才能を持った天才ということができるでしょう。