平山郁夫

『平和への祈りを描いた日本画の巨匠、平山郁夫』

  

昭和から平成にかけて活躍した日本画の巨匠、平山郁夫を知らない人はいないのではないでしょうか? 

絵画を通して原爆で亡くした友への鎮魂の思いや平和への祈りを表現し、さらに文化財の保護活動のために私財をなげうって世界をめぐった平山郁夫。彼の生きる姿勢には、多くの人からの共感と尊敬が集まりました。

それでは、さながら平和の使者のごとくふたつの時代を駆け抜けた平山郁夫について紹介します。

 

平山郁夫とは

 

平山郁夫は、昭和から平成にかけて活躍した広島県生まれの日本画家です。代表作には、玄奘三蔵が厳しい砂漠の旅を乗り越えてオアシスにたどり着く情景を描いた『仏教伝来』や、玄奘三蔵の足跡をたどる『大唐西域壁画』、瓦礫の山を背景にして子どもたちを描いた『平和の祈り―サラエボ戦跡―』などがあります。

自らの被爆体験をふまえて「仏教」や「平和」をテーマとした多くの作品を残したほか、東京芸術大学の学長を務めたり、文化財の保護活動に取り組んだりしたことでも有名。国や宗教の垣根を越えて貴重な文化財を守るために提唱した「文化財赤十字構想」も広く知られ、彼の働きかけによって始まった事業は、現在も様々な組織によって受け継がれています。

豊かな教養に基づいた画面構成で平和への祈りを静かなタッチで描いた平山郁夫の作品は、今でも多くの人に愛されています。

  

 

平山郁夫を苦しめた被爆体験

 

平山郁夫が仏教や平和をテーマとして多くの作品を残したのには、彼の被爆体験が大きく関係しています。 

平山が学徒動員の最中に被爆したのは、中学3年生のときのことでした。ぼんやりと空を眺めていた平山は、黒い物体を下げた3つの落下傘を目撃。これを知らせるために仲間のいる小屋に飛び込んだ直後、鋭い閃光と轟音が彼をおそいました。

この時に平山がいたのは、爆心地からわずか4キロ弱のところだったといいます。幸いにも死を免れた平山ですが、被爆体験の後遺症は彼を苦しめ続け、一時は死をも覚悟しなければならないほどでした。

「私が原爆を描く機会があるとしたら、それは絵かきとしてではなく、あの原爆の日を生き、原爆の日に多くの友を失った一人の人間として、描くことができるようになった時だと思ってきました。」

これは、燃えさかる広島を描いた『広島生変図』という作品に寄せて、平山が語った言葉です。彼がこの悪夢のようなつらい体験を消化し、絵にすることが可能となるまでには、実に34年もの月日を要したのでした。

 

 

平山郁夫の作品について

  

平山郁夫の作品は、取り上げるテーマによって大きく3つにわけることができます。

 

仏教にまつわる作品

初期の代表作『仏教伝来』や、釈迦の母である摩耶夫人の受胎を描いた『受胎霊夢』など、平山は仏教をテーマとした作品を多く制作しています。これらは仏画を描くときの約束事にとらわれることなく、自由な発想で描かれているのが特徴。輪郭線をなくすことで幻想的な雰囲気を醸し出した作品が多く残っています。

 

シルクロードにまつわる作品

仏教をテーマとした作品を描くうちに、平山の関心はシルクロードへ向かっていきました。仏教を伝えるために玄奘三蔵が歩いた道を、自らも辿ってみたいと考えるようになったのです。仏教にまつわる作品よりもやや写実的な表現で描かれた、異国情緒あふれるこれらの作品は、シルクロードの取材旅行で描いた多くのスケッチを利用して制作されました。

  

日本の風景を描いた作品

日本文化の伝統や美しさの信奉者であった平山は、法隆寺などの歴史的な遺産を描いた絵も多く残しています。また、深い知識に基づいて描かれた歴史画や美しい自然をみずみずしく描いた作品も人気です。

 

  

平山郁夫の生涯

 

平山郁夫は昭和5年(1930年)、広島県南東部にある生口島に生まれました。8人兄弟の3番目で次男であった郁夫は、幼いころから鉛筆やクレヨンに興味を示して、よく絵を描いていたそうです。父の峰市は町の議員や名誉職などを勤める人望の厚い人物でした。

  

若き日の平山郁夫

昭和18年(1943年)広島市内にある私立の修道中学校に進学。のどかな島を出て厳しい寮生活を送るようになりました。戦時中であったために食糧事情も悪い過酷な状況でしたが、平山は絵を描くことで自分の心を慰めたといいます。 

平山が被爆したのは中学3年生のときのことです。学徒動員の最中に爆心地からわずか4キロ弱のところで被爆し、このときの体験はのちの後遺症につながって平山を苦しめました。

 

東京美術学校での日々

中学卒業後、親戚で東京美術学校の彫金科の教授だった清水南山の強いすすめで東京美術学校を受験。合格した平山は、最年少の16歳で東京美術学校に入学しました。

入学後は年上の同級生を前に自信をなくしたり、この頃に話題になった日本画滅亡論に思い悩むこともあったといいます。しかし古い絵画を模写したり文学や哲学書を読んだりしながら学びを深めた平山は、第2席という優秀な成績で卒業しました。ちなみにこのとき首席だったのが、のちに妻になる5歳年上の松山美和子でした。

卒業後、母校に副手(助手の下で研究の補佐をする職員)として残った平山は、数年後に同じく副手として残っていた松山美和子と結婚しました。結婚後の松山美和子は平山のサポートに徹し、夫の制作を支えました。

 

後遺症の苦しみ

結婚後しばらくすると原爆症の兆候があらわれ、死への恐怖と戦わなければならない苦しい日々が訪れました。しかし平山は学生らとの写生旅行で美しい自然の生命力にふれて活力を取り戻したといいます。 

そんなときに完成したのが『仏教伝来』という作品で、これは平山の代表作のひとつとなりました。仏教という大きなテーマを見出した平山は、体調が持ち直したということもあり、その後精力的に作品作りに励みます。

 

シルクロードを描く

昭和41年(1966年)、東京芸術大学第1次中世オリエント遺跡学術調査団に参加。トルコ・カッパドキア地方を訪問します。その後、平山は仏教伝来の舞台となったインドや中国を含むシルクロードの国々の取材を、150回以上にわたって繰り返しました。これらの旅で生まれた4000点をこえるスケッチは、シルクロードを描いた作品群に大いに生かされたといいます。

また、平成12年(2000年)に完成した薬師寺玄奘三蔵院の『大唐西域壁画』は彼の画業の集大成ともいえる大作となりました。

平山はその後も数々の作品を残し、また、文化財の保護などの社会貢献活動にも積極的に取り組みました。平成21年(2009年)、平山郁夫は79歳でこの世を去ります。亡くなる間際まで筆をおかず、病床でも制作を続けていたといいます。

 

 

平和の使者として生きた平山郁夫

 

平山郁夫の妻美和子は才能あふれる日本画家でしたが、結婚後は自ら筆を折って夫のサポートに徹したといわれています。それだけ夫郁夫に、豊かな才能と人間的魅力を見出したということなのでしょう。絵画を通して平和への祈りを表現し、文化交流を通して平和の使者として生きた平山郁夫の生涯には、多くの人からの尊敬が集まりました。

被爆体験という強烈なできごとを乗り越えた平山郁夫にとって、描くこととは亡くなった友だちへの鎮魂であったとともに、自らの傷ついた心を癒すためにもなくてはならないものだったのでしょう。彼が残した作品は多くの人を癒し、この何気ない平和の大切さを今も私たちに訴えかけているのです。