東山魁夷

『昭和とともに生きた青の巨匠、東山魁夷』

  

あの穏やかで美しい作品の裏側に、悲劇的ともいえるつらい体験があったなどと誰が想像できるでしょうか?東山魁夷は戦時中から復興期にかけての激動の時代を生きた日本画家。美しい風景画を通して人々の心を癒し、励ましてきました。

それでは、日本人の心を惹きつけてやまない東山魁夷の作品が、どのようにして生まれたのかを見ていきましょう。

 

東山魁夷とは

 

東山魁夷は、昭和を代表する国民的風景画家といわれています。度重なる身内の死や過酷な戦争体験を経て風景画家として開眼し、数多くの名作を残しました。

戦後すぐに描いた『残照』や、新しい時代の幕開けを感じさせる『道』など、つらい時代を乗り越えてきた国民の心に寄り添うような作品も多く、どこか懐かしさを感じさせるようなあたたかみのある風景を幻想的に描いた作品が、多くの人々の心を癒し、惹きつけてきました。

「青」を使った作品を多く残しているため、青の巨匠とも呼ばれる東山魁夷。文筆家としても知られており、『わが遍歴の山河』や『風景との対話』などの多くの画文集も制作しています。それらは、魁夷がどのように作品と向き合ってきたのかをうかがうことができる、貴重な資料といえるでしょう。

文豪の川端康成と親しくしていたことでも知られ、友人関係であった彼らは何十通にも及ぶ往復書簡を残しています。

  

 

東山魁夷の作品について

 

それでは、東山魁夷の作品の特徴や魅力について紹介したいと思います。

 

風景画を描く理由

東山魁夷はどこか郷愁の感じられるような美しい景色を、幻想的なタッチで静かに描いた風景画を数多く残しました。

魁夷が風景画を多く制作したのには、彼の戦争体験が大きくかかわっています。魁夷は終戦直前に招集を受けて入隊。爆弾を持って戦車に突撃をする練習に明け暮れる毎日のなかで、一時は絵を描くことも、生きることすらもあきらめざるを得ない状況に追い込まれました。しかし、このどん底ともいえる日々の中で、ふと目に入った自然のあまりの美しさに、強く心を打たれたといいます。 

この風景をなぜ今まで描かなかったのだろうか、もし絵筆を再び握ることが叶うのならこの感動を描いてみたい、と魁夷は心の底から思ったのでした。その後終戦を迎えたために幸いにも死を免れ、その機会を得ることができた魁夷。こうしてできあがった『残照』という作品は第3回日展で特選を受賞します。 

戦時中の強烈な体験を乗り越えたからこそ、魁夷は自然の輝きや美しさに対する感動を描くことにこだわり、数多くのすばらしい風景画を残すこととなったのでしょう。

 

東山ブルーと呼ばれる独特の色彩

その作品の中に青を基調とした作品がたくさんあることから、青の巨匠と呼ばれることもある東山魁夷。同時代に生きた奥田元宋が赤を印象的に使った作品を描いたことと、対照的に語られることもよくあります。

「青は精神と孤独、憧憬と郷愁の色であり、悲哀と沈静をあらわし、若い心の不安と動悸をつたえる。青は又抑制の色であって、絶えず心の奥に秘められて、達することの出来ない願望の色である。」

これは、東山魁夷が画文集『青の風景』の中で語った言葉ですが、魁夷自身が「青」という色に対して特別な思い入れを持っていたということがよくわかります。

特に戦後には青を使った絵を多く制作している魁夷。なかでも友人の川端康成の言葉がきっかけとなって描かれたといわれる『京洛四季』のなかの『年暮る』や、魁夷が64歳の時に描いた『白馬の森』、そして67歳の時に完成させた唐招提寺障壁画の『山雲』や『濤声』などからは、魁夷が描く青の美しさが存分に感じられるでしょう。

  

東山魁夷と音楽

魁夷は昭和47年(1972年)に「白い馬の見える風景」という連作を生みましたが、その誕生のいきさつについて次のように述べています。

「その年に描く何点かの作品の構想を漠然と考えていた時、ふと、モーツァルトのピアノ協奏曲イ長調(K488)の第二楽章の旋律が浮かんできた。」

「すると、思いがけなく一頭の白い馬が、針葉樹の繁り合う青緑色の湖畔の風景のなかに小さく姿を現わし、右から左へと、その姿を横切って姿を消した。」

これは画文集『オーストリア紀行』の中で、魁夷が語っている言葉です。このように魁夷は、自らの絵画と音楽を結びつけて発想を広げることがありました。また、他の画文集では『晩照』という作品について、バッハのトッカータとフーガニ短調の響きのようなものが底に流れているようだ、と表現しています。

魁夷は音楽を愛し、インスピレーションの源とも考えていたのでしょう。モーツァルトのように誰もが知っている有名な作曲家の作品から、魁夷のあの独創的で唯一無二の作品が生まれたのだと思うと、不思議ですね。モーツァルトのピアノ協奏曲を聴きながら、東山ブルーの名作『白馬の森』を見れば、巨匠の心象風景を少しだけ覗き見ることができるのかもしれません。

 

 

東山魁夷の生涯

東山魁夷は1911年(明治41年)に神奈川県横浜市で生まれました。もともとは洋画を志望していましたが父親の反対で日本画科を受験、1926年(昭和元年)に東京美術学校日本画科に入学しました。

 

若き日の魁夷

東京美術学校に在学しながら、いくつかの作品を帝展に出品した魁夷。作品はいずれも入選し、若くして優れた才能を持っていたことがうかがえます。一方で、この頃には兄の国三が肺結核で亡くなり、船具商を営んでいた父の事業が不振になるなど、不幸な出来事も続きました。

その後、魁夷は研究科に在籍しながらドイツ語を学び、ドイツに留学します。ドイツだけでなくイタリア、フランスなどにも足を延ばし、途中からはベルリン大学の哲学科にも籍を置いて美術史を学びました。この経験はその後の魁夷の作品に大きな影響を与えています。

 

死に向き合った日々

帰国後しばらくすると、魁夷は日本画家の川﨑小虎の娘すみと結婚し、生涯の伴侶を得ました。しかし、この頃に父や母、弟を病気などでを立て続けに亡くしています。また、魁夷は終戦間際に招集を受けて入隊。しかし、すぐに終戦を迎えたために、死を免れました。

愛する家族の死に立ち会い、自らも死を覚悟した体験を経て、魁夷の作品は生まれ変わります。その後できあがったのが、第3回日展で特選を受賞したあの『残照』です。

 

画家として活躍

『残照』以降、画家としての地位を確立した魁夷は、さまざまな大作に挑むことととなりました。川端康成の言葉がきっかけとなって描かれたといわれる昭和43年の『京洛四季』や、昭和46年に描かれた唐招提寺障壁画は特に有名です。また、大作の合間には北欧諸国やドイツ・オーストリアを訪れ、現地の美しい自然を描いた作品を残しました。

数々の名作を残した東山魁夷は、90歳にして老衰でこの世を去ります。魁夷は何度もスケッチのために訪れ、愛着を持っていた長野県に葬られました。魁夷が眠る花岡平霊園からは、魁夷の作品を多く所蔵する「東山魁夷館」という美術館を望むことができます。

 

  

風景との対話を続けた東山魁夷

 

「白い馬の見える風景」の連作のなかのひとつである『緑響く』の舞台となったのが、長野県の茅野市にある御射鹿池です。魁夷は東京美術学校に通っていた頃から長野県の風景を描いた作品をたくさん制作してきました。彼にとって長野は心のふるさととも呼べるような場所だったのでしょう。

長野県にある魁夷の墓地には、「自然は心の鏡」という魁夷の文字が刻まれたモニュメントがあります。長い画家人生をいちずに風景画に捧げ、風景との対話を続けた東山魁夷。そんな魁夷らしい言葉に胸を打たれます。